ごあいさつ
研究開発責任者あいさつ
語り合う
学びの場に向けて
東京大学大学院教育学研究科
臨床心理学コース 能智正博
はじめまして。
「語り合い学び合う特別支援教育スキリング・プロジェクト」のとりまとめを行っています能智と申します。
現在公教育のなかで、不登校、いじめなど実に様々な問題が生じているのはご存じの通りです。私が専門としています臨床心理学では多くの研究者がそれぞれの専門の立場から個々の問題に向き合ってきましたし、私の所属するコースでも、そうした問題に対処できる公認心理師や臨床心理士などの心理専門職を育ててまいりました。
ただ同時に、これまでずっと懸念しておりましたのは、現場で働く先生方が疲れ、心身に不調を来したりしている現実です。教師としてのご自分のご自分の技量に自信をなくすなどして、離職される先生方も、特に若手の先生方を中心に増えています。この状況をなんとかしたいという思いのもとで、私たちはこのプロジェクトを立ち上げました。毎日を学校で生活する子どもたちが元気になるためには、先生方も元気になってもらう必要がある、と私たちは強く感じています。
変化の著しい現代社会のなかで、子どもたちの文化的背景も性格や能力も多様化しています。そんな子どもたちが個性をもつユニークな存在として尊重され教育される必要があることは、今や自明の前提かもしれません。そんななかで先生方の悩みの種の1つになっているように見えるのが、「発達障がい」や、そこまでいかなくても独特な行動特徴をもつ子どもさんにどう対応したらよいかという問題です。
私はこれまで臨床心理士/公認心理師として、心身に障がいがある方々のリハビリテーションの場にも関わってまいりましたが、そうした方々の支援を行っていくのは専門教育を受けていない方々にとっては決して簡単ではありません。障がいは常に周囲の社会との関係のなかで障がいとして現れるものであり、社会の変化や複雑化とともに「障がい」のかたちや特徴も変わってきています。そこにそれぞれの子ども一人ひとりの個性が重なってくるわけですが、そうしたことを考慮するとなると、常識的な対人スキルで間に合う部分はどうしても限られてしまうのではないでしょうか。
本プロジェクトが、「特別支援教育スキリング」つまり、特別支援教育で使われるスキルを中心として、独特の心理・行動上の特徴に対する理解の仕方や対応の仕方を学ぶ機会と場を作っていくことを重要な柱にしているのはそのためです。そうしたスキルは、実際に特別支援教育に関わっている先生方だけのものではなく、すべての先生方に必要とされるスキルと言えるでしょう。
ご存じの通り、特別支援教育の場では、心身の障がいなど様々なユニークな特性をもつ子どもたちの発達と教育が日々行われています。また、研究者も最近はその現場に入ってそこから学び、多くの知識と技術を蓄積してきました。残念ながら、その知識や技術はまだ十分先生方全体に伝えられ使われているわけではないような気がします。本プロジェクトで考えている特別支援教育に関わるスキルは、私たちの視野にあるものについては前もって整理して、その都度、参加される先生方にお伝えしたいと思っています。
しかしそうしが既存の知識や技術だけではなく、実践の現場にはまだ言葉にされていない知恵や工夫も眠っているように思われます。お一人お一人の先生方が、実はそうした知恵や工夫を我知らずお使いになっている場合もあるかもしれません。それを共通の言葉にしていくこともまた、実践のスキルを発展させていく際には重要ではないかと思います。私たちは、このプロジェクトを通じて現場の先生方おひとりおひとりの経験からも学びたいと考えています。そして、まだすべて言葉になっていないかもしれない「現場の知」を掘り起こして確認し、それを伝え合うための仲介もまたこのプロジェクトが果たしていきたい役割の一つです。
このプロジェクトでは、学ぶことの前提条件の1つとして「語る」ことがあると考えています。つまり先生方が各自の思いを言葉にしてそれを共有していくことです。近年の臨床心理学では、私たちの人生は語り/物語、あるいは「ナラティブ」に支えられているという考え方をとることがあります。ある種の語りは、困難な時の支えとなったり新たな希望を生み出したりするでしょう。新たな学びを進めていくためには、ご自身の伸びしろを意識し、変わっていける自分を信じられるような語りが必要になると思われます。
もちろん私たちは誰もしばしば、否定的な語りに翻弄されます。いやな出来事が続けて起こったときなど、自虐的になったり自分の周囲を罵ったりしてしまうのも一つの語りの形です。そんなときは学びたい気持ちも萎えてしまうかもしれません。しかし、どれほどその出来事が問題をはらんでいるように見えたとしても、その体験をした人自身が事実として問題であるとか世界全体が問題であるわけではありません。臨床心理学の実践では、そうした語りに働きかけるやりとりを通じて、問題を問題に限定し、変化の可能性を見つけるお手伝いをしてきました。
このプロジェクトで私たちが作り上げたいと思っているのは、そうしたやりとりのもとでお一人お一人の語り変化し、それに伴って気持ちがリフレッシュされていく、そんな場所でもあります。現実の生活場面ではそれほど簡単ではないかもしれません。そこで私たちは、バーチャルなオンライン空間の利点も活用しながら、そうした場作りを試みていこうと考えています。
以上のような目的を実現するために、このプロジェクトでは大きくは次のような6つのユニットを組織し、協力しながら活動をしていこうと考えています。
全体の土台となるユニットは、「教員心理支援」です。このユニットでは、臨床心理学の知や公認心理師・臨床心理士の技法を使いながら、日々のご苦労の語りをお聞きしつつ学びのための心理的準備をしていただくことを目指します。
そうした土台の上で、学びのためのバーチャルな場を作っていくのが、「教員職能開発」のユニットです。ここでは、主にオンライン上の語りと学びの機会を準備します。特別支援教育に関わる知識やスキルを整理してお伝えしたり、それぞれの先生方の貴重なご経験からさらに知識やスキルの整理を進めたりしていきたいと考えてます。
そうしたバーチャルな場を、具体的な教育現場につなげていくのが、「地域実装」と「学校実装」のユニットです。当面は北近畿地域の教育委員会やそれとつながる小中学校とこのプロジェクトの間に協力関係を構築し、ゆくゆくは他の地方にも支援の輪を広げていきたいと考えています。
「データサイエンス」のユニットでは、以上のような実践を単に一回一回の実践で終わらせるのではなく、質的・量的なデータを使いながらこのプロジェクトの成果を整理・分析します。そして、その結果は「情報発信」のユニットが中心となって、個人情報に配慮しつつプロジェクトの外の現場や研究機関にも広げていく予定です。
こうした研究プロジェクトは、その大半が大都市圏にある研究大学や研究所が主導して提案され、その近辺で行われることがこれまで多かったような気がします。しかし、それだけで日本全体の問題への対処が可能なのか、疑問に思われる方も多いのではないでしょうか。私ももともとは地方出身者であり、都市部の環境条件を自明な前提とした対策に対して常々疑問をもってきました。
確かに、インターネットの普及により都市部と地方の情報格差は縮まってきつつあります。しかし、バーチャルではない都市と地方の環境条件の違いを全く無視することはできないでしょう。とりわけ現実の学習や教育は、直接目に見え手に触れられる環境のなかで行われる部分が大きいと思われます。そうした違いを格差と考えるのではなく、それぞれ独自のあり方とみなし、生活の文脈の多様性として捉えていくことが、今後ますます必要になってくるのではないでしょうか。
これからの日本社会を発展させていくためには、都市型だけではない様々な生の形をとらえ、それぞれのあり方の間の対話からお互い学んでいく態度が必須だろうと私たちは思います。都市部から地方へとアイデアを伝えるだけではなく、地方から学びそこで実践していく、あるいは地方で考え地方から発信することの意義は強調しすぎることはないでしょう。今回のプロジェクトが、福知山市を中心とした北近畿という大都市から離れた地方を最初のフィールドとした背景にはそうした事情があります。
今回のプロジェクトは、内閣府総合科学技術・イノベーション会議(CSTI) 戦略的イノベーション創造プログラム(SIP) 第三期課題「ポストコロナ時代の学び方・働き方を実現するプラットフォームの構築」(プログラムディレクター 西村 訓弘 三重大学大学院 地域イノベーション学研究科 教授・特命副学長 / 研究推進法人 国立研究開発法人 科学技術振興機構)の研究課題として採択されたものです。また、副研究開発機関として、福知山公立大学の支援を受けて行われております。関係機関の皆様には心より感謝申し上げます。
プロジェクトを通じて、地方の様々な環境条件のなかでの実践が蓄積され、その条件の影響が意識化されるなかで、将来的には様々な地方に適用できる知の構築につながっていくことを願ってやみません。
これから5年間の予定になりますが、何卒よろしくお願いいたします。
(のうち・まさひろ) 米国シラキュース大学大学院教育学研究科博士課程修了(Ph.D.)。帝京大学、東京女子大学、東京大学大学院教育学研究科助教授・准教授を経て、2010年より現職。2016年4月~2018年3月 東京大学大学院教育学研究科附属学校教育高度化・効果検証センター長。2018年 東京大学大学院教育学研究科附属バリアフリー教育開発研究センター運営委員。